地雷原を越えて、世界の終わりに着く【福田の南米の思ひ出7・最終回】
こんにちは、エルハウス福田です。
福田の若かりし日々の自転車の思い出をつづるシリーズ、
今回は南米編その7・最終回です。
前回書いたところから、3ヵ月開きました。
忙しかったこともありますが、
旅の終わりとは実に寂しいもので、
この連載を終わらせることをためらっていた部分もあるように思います。
パタゴニアと来たら日々、暴風で町がない日々が続きます。
オートバイで世界を旅するサブロー先生。
砂漠の真ん中で人に会うと、非常に嬉しいです。
パタゴニアの中でもRUTA40っていうところは、本当に町もないし、人もいない。
車も通らない。
道路も舗装されていない。
暴風が吹き荒れている。
そんな中で二輪の人に会うと非常に嬉しい。
人間、ありがとうって。
「オラ!(スペイン語でこんにちは)」
と言いながら、近づいてみたら、この人、ヘルメットに日の丸のシールが入っている。
「え?! 日本人?!」
本当にパタゴニアのど真ん中での出会いだったので、本当に感動しました。
サブロー先生は、20歳くらいから、オーストラリアに留学して、そのままオーストラリアで暮らして、
JPモルガンなんていう超一流企業でも働いていました。
でも、世界を旅することにしたのです。
サブロー先生の話は長くなるので割愛です。
でも、サブロー先生との出会いは若き僕にとって本当に大きな出会いになりました。
ちなみにサブロー先生は今は兵庫県の方で、猟師をしているはずです。
お金が足りなくなったので、カラファテの寿司屋で年末年始アルバイトさせてもらいました。
島藤夫妻は、ご主人が日本人で、奥様は韓国人。
日本人宿フジ旅館と寿司レストランを営んでいます。
ちなみに、世界で一番南にある日本人がやっている寿司レストランだそうです。
給料は少ないですが、まかないが美味しい。
スペイン語も英語も喋れないのに、注文をとって料理を運びます。
たまに日本人も来ますが、観光客の外人さんがほとんどです。
ご主人がギターが好きで。
店を閉めて、12時ごろに宿に帰って、ギター談義に花を咲かせます。
一緒にビールをいただいて、
「ブルースやろう」って。
他の宿泊客もいるのに、深夜にギター弾いて遊んでました(笑)
世界の反対側で韓国人の奥さんと寿司レストランをする人生もあるんだな、って。
生きるって自由ですよね。
写真はないですが、カラファテでは、フィッツロイとペリトモレノ氷河にも行きました。
ヒッチハイクで旅し続けるおじさん。
南米大陸をコロンビアからずっと歩き&ヒッチハイクで旅しています。
アメリカ人。
黄色いジャンパーはホッケーのチームのジャンパーって言ってました。
「へい、ミスター! また会ったね!」
彼とはリオ・ガジェゴスという町くらいで会って、そこからウシュアイアまで、ちょくちょく道で会うことになります。
ヒッチハイクの方が速そうなものですが、
ヒッチハイクは拾える時は拾えるけれど、そうじゃないときは歩いて移動するので、
意外と自転車と同じくらいの速度になるようです。
羊がいっぱいパタゴニア。
グアナコ。鹿みたいな生き物。ダチョウみたいな生き物もいました。
最後の島フエゴ島に渡るフェリー。
フエゴ島。
チリとアルゼンチンの国境付近は地雷原もあるので、道からはみださないように。
TIERRA DEL FUEGO.RUTA3.
フエゴ島。
海外の道路標識っておしゃれですよね。
トルウィンのパン屋で知り合った夫婦と。
トルウィンのパン屋、この前、火事で燃えてしまったらしいですね。
悲しいです。
トルウィンのパン屋というと、パン屋なのですが。
ウシュアイアの手前の小さな村で、宿もないような小さな村なのですが。
二輪乗りの旅人は無料で宿泊させてくれて、パンもご馳走してくれるという、
実に優しいパン屋さんなのです。
ウシュアイアの手前は山岳です。
アメリカ人夫婦と最後はすすみます。
最後の町、ウシュアイアです。
ウシュアイアからさらに国道の途切れる最後のところまで進むと道が終わります。
道の終わりの看板。
海外を二輪で走る人の間ではこの看板は憧れですね。
改めて、生まれて初めての海外旅行で、こんな遠くまでよく自転車こいだなとしみじみ思います。
パタゴニアのことを思い出していると、
アフリカよりもパタゴニアの方が愛着がありますね。
初めての海外旅行だったからなんですかね。
楽しかったな、としみじみ。
看板の向こう。
道が終わります。
アラスカから2万5千キロくらいずっと旅してきた人には特に感慨深いものでしょう。
まあ、僕はブエノスアイレスからだから3500kmほどですが。
現地の言葉で言うとFin del mundo.
世界の終わりです。
静かな入り江になっています。
コーヒーを沸かして、町で買ってきたフランスパンをかじるとおいしいです。
沢木耕太郎の「深夜特急」なんかでも、旅の最後っていうのは、なかなか綺麗にしめるのが難しいもののようです。
誰にとっても旅の最後って難しいものです。
特に自転車でずっと旅すると、不思議な無敵感みたいなものが出てきます。
自由気ままの自転車旅。
自転車とテントさえあればどこでも行けちゃうぶらぶら感。
世界の中で、地面と空と、そしてオレ。
地平線を自転車こいでいる間は本当にそんな感じです。
言うなれば、地上50センチ、超低空飛行、超低速飛行の人力戦闘機みたいなね。
チャリで放浪すると言うのは、実に最高なのです。
旅の終わり。
アフリカ編ではフランク老人でしたが、南米編では、今日の記事の黄色いジャケットのヒッチハイクのおじさんです。
ウシュアイアに到着して、帰りの飛行機を待機する日々。
やることがないので、宿の近くのショッピングモールに行って、
そこの3階のフードコートでWiFiを捕まえます。
当時は宿にWiFiがなかったので、フードコートか、街のインフォルマシオン(観光案内所)に行ってWiFiを捕まえていたのです。
ネットをたしなんで、100円ワイン(紙パックで1リットルの牛のマークのアルゼンチンワインがあった)とパンを買って帰る日々です。
旅人が宿に置いて行ったパナマの葉巻をたしなみながら、ワインを飲む日々です。
目的地に到着して、自転車から降りた途端に堕落の日々です。
いつものごとく、そのフードコートに行くと、
なんと黄色いジャケットのヒッチハイクおじさんがいました。
「あれ! 久しぶり! ウシュアイアに着いていたんだね!」
しかし、なんだかうまく会話ができないのです。
自転車で走っていた頃には、なぜか英語がぺらぺらで理解できたのに。
なぜか、英語が上手くしゃべれない。
彼とFacebookを交換することさえ上手く出来ないのです。
おじさん「まあ、Facebookはいいや。ウシュアイアの次はどこに行くんだい?」
福田「え、日本に帰るんだよ。お金もなくなっちゃったし」
おじさん「はは、オレも金がなくなっちまったよ」
福田「じゃあ、アメリカに帰るの?」
おじさん「いや、オーストラリアかアフリカに飛ぼうと思ってるよ」
福田「え、お金は?」
おじさん「どこかで働いて稼げば良いさ」
英語が上手くしゃべれないなりに彼とコミュニケーションできたのはそのくらいでした。
「なんか喋れなくなっちゃったけど、ああ、そうか。旅って、終わらないのか。いくらでも続けられるのか。でも、日本に帰ろう」
そう思ったのです。
なんで自転車の日々ではあんなに彼と会話もできたのに、
ショッピングセンターで会ったら、こんなに英語がしゃべれなくなったんだろう。
いや、多分、そもそも自転車で走っていた時も英語はしゃべれていなかったのでしょう。
スペイン語も。
ただ、自転車に乗って、一生懸命、ただただ南に向かって走る青年を、
みんなが応援してくれた。
そして、多分、ただただ南に向かって命をかけて走ることが、
不思議と見る人たちの心を勇気付けた、何か応援したくなるような気持ちにできたんじゃないかなと思います。
それは、当時は分からなかったことですが。
30もすぎて、子どももできて、マイホームも建てた今だから思いますが。
あの時、僕は一生懸命生きていた。
医学部受験を失敗して、すべりどめで入った大学に意味を感じられず。
友人の女の子がうつ病になって、いろいろ絶望して。
大学をやめて、
「せっかくの国立大学の理系をやめちゃって」
なんて一族やいろんな人にも言われ、
就職しようにも、高校卒業するタイミングでストレートで就職する人たちとは混ざれないし、
もちろん、大学を卒業した人にも混ざれず、
あー、なんか絶望だな、世界の反対まで自転車で行ったら何かあるかな、
死んだら嫌だな、でも、死んでも良いかな、
そんな出発から、死に物狂いで前に進んで、世界の一番南の町まで走り続けた。
別に、そんなことは人類にとって何の役にも立たないですが、
僕の人生を背中を押してくれた、
人生で本当に困ったところ、人生の挫折から脱出するための偉大な旅でした。
本当にGreat Journeyでしたね。
ありがとう、アルゼンチン、パタゴニア。
福田の海外旅行。
次回は、再来年。
家族でニュージーランドをキャンピングカーで回ろうかなと思っています。
キャンピングカーになるかな、どうかな。
独身時代とは違う楽しみ方を。
その時代にできる一番楽しいことをやり続けて生きていたいですね。
南米編も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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